南三陸町


ご存知だと思いますが、南三陸町の防災庁舎です。
三階建ての建物で、その屋上を2メートル上回るところまで津波が襲い、屋上に避難した約30名の方のうち、第一波が引いた後無事が確認できたのはたった8名になっていたそうです。

町内はところどころに鉄筋の建物跡を残して、すっかり流されてなくなっていました。
駅も線路も津波にのまれ、集められた枕木が積み重ねられていました。

地元の事業者が軒を連ねる南三陸さんさん商店街。
少しでもお役に立てればと、こちらの仮設商店街でお昼をいただきました。
海鮮丼をオーダーしたら、トロ、イクラカニ穴子などなど、新鮮なネタがふんだんに使われていて想像以上の大満足。


食事の後、観光協会のインフォメーションで買い物をし、震災の写真を見ながらガイドさんにお話を聞くことができました。
「震災後に避難所に避難した方々が、『自分たちはがれきに住んでいたわけじゃないんだ。自分の家はがれきじゃない。必死に働いて建てた佇まいをがれきだなんて言って欲しくない』と話していた」と。
そして「『実家に帰る』『うちの親は』と言うのはこの辺りでは禁句かもしれません。お正月やお盆になると皆さん実家に帰られる方が多いと思いますが、帰りたくても帰る家は津波に流された。会いたくても津波で親が死んだ。孫の顔や成長を見せたくてももう親がいない、という人がおびただしい数いる」とのこと。
ガイドさん自身も少しでも高い山へと必死で逃げて、逃げる直前まで同じ場所に一緒にいたご兄弟の姿が見当たらなく、1ヶ月後、3ヶ月後にその遺体が発見されたという経験をし、それでも今なお行方不明の方だっているのだから、発見されただけまだいい、とおっしゃっていました。
介護福祉施設の職員さんが車いすを押して避難している中、一瞬後ろを振り返ってもう一度前を見たら、車いすに乗せた方の首までもう水が来ていてどうすることもできなかったと泣いていた、という生々しいお話もありました。
心理的にガイドとして話せない時期がずっとあったそうですが、生死を分けて残され与えられた命だから、こうして訪れる方々に話そうと思ったんだそうです。
聞いていて涙が溢れて止まりませんでした。
改めてお正月に帰る場所がある私は、恵まれていると気づかされました。